エイプリールフールの日に、食べログから表彰状が送られてきました。「食べログ、ベストレストラン、2009、10万人のユーザーに選ばれた至高の名店」とのことです。料理のジャンルを問わず、高評価の愛知県内200店に配られたようです。
こんなことを言うと大ひんしゅくを買って、また怒られそうですが、美味とは何かをまったく知らない人が大多数を占めるサイトの採点ですから、グルメの方々にははっきり言ってアテにはなりませんよね。「素人受け」したという意味でのベストレストランの評価だと思っていいのではないでしょうか。
そういえば、昔「おとなの週末」という講談社の雑誌で、予算8000円以内の店で、年間の「金賞」に選ばれたことがありましたが、あれもいい加減な雑誌だったなぁ~。うちの料理を一度も食べずに選ぶんですから、すごいもんです。
いい加減といえば、京都の調理師会の「連名簿」。連名簿というのは何かというと「料理人の番付表」で、大相撲の番付表のように東西に分かれています。NHKの「プロフェッショナル」に京味、西健一郎さんが出演されたとき、お父さんの西音松さんが東の横綱だったという「連名簿」を写していましたので、ご覧になった方は記憶にあるかもしれませんね。
ボクが26歳のときの「連名簿(京都の部屋の名前は忘れた)」が、たぶん自宅のどこかにあると思うのですが、ボクの作る料理を一度も食べずにどうやって評価したんだろうって、今もって不思議です。興味がないので、ほとんど忘れてしまいましたが、序列は300人中、50番目ぐらいだったと思います。
ボクの料理人としての系譜は、戦前、京都で川魚の名人と言われた「南畑吉之助」の晩年のお弟子さんで、愛知、三河の調理師会の会長を務められていた「登」さん。その弟子の奥野さん(伏見の京懐石、貴船の元料理長)、その奥野さんについたのがボクでした。なので京都の調理師会に半ば強制的に入れさせられて、調理師会のお偉方に用事があるたびに言いつけられて、名古屋と京都を行ったり来たりしていました。
そして、その奥野さんから勉強に行って来いと出されたのが、大阪の「丸治」に9年いて、名古屋「澤屋(名古屋財界の縮図といわれていたカウンターもある料理屋。25年前で客単価25000円ぐらいの店)」で料理長をつとめていた中西のおやじさん。
この「丸治」という店は、今はもうありませんが、当時はかなりの店だったらしいです。中西のおやじさんが丸治を辞めた後、今度は吉兆(当時の大阪本店)で勉強しようと電話をしたそうなんですが、「今までどこにおられましたか」と聞かれて、「丸治で9年、煮方までやった」と答えたら、「丸治さんにおられたのなら、うちに来てもらっても勉強できることはありません。」と言われたそうです。(中西のおやじさんから聞いた話ですので。)
その丸治のおやじさんが亡くなり、継続が困難になって店を閉店するとき、大阪の新聞が半ページを使って、名店の閉店を惜しむ記事を載せたそうです。飲食店の閉店をこんなに大きく取り上げるのは、すごく珍しいことなんだぞと言って、その新聞のスクラップを中西のおやじさんから見せてもらったことがあります。
つまりボクは、40年から50年前の京料理と大阪の料理を一生懸命勉強した二人の料理人から料理を教わったということになります。
余談ですが、うちの店を作った建設会社の社長さんは、京都のたん熊に7年間いて(煮方を担当)、京味の西さん(当時、向板担当)とも一緒に働いていたそうです。たん熊をやめたあと、店をやるつもりでいたらしいんですが、お金がないから自分で店を作ろうと思いたって大工の小僧になったら、そのまま建設会社を始めてしまったという、ちょっと変わった経歴の持ち主です。
その人から、「たん熊に健ちゃんというのがおってな、自他共に認める日本一だと言われていたんやで。」と西さんの話を何度も聞かされていました。健ちゃんとしか言わないので、誰のことか長いことわからなかったのですが、ある日、西さんの本を見せて、「健ちゃんって、ひょっとしたらこの人?」と聞いてみたら、まさにそうだったというわけです。
なので、西さんがご健在なうちにと思って、京味に一緒に行きませんかと誘っても、「行かない」というんです。その理由が、どうも料理人としての志を貫徹せずに建設会社の社長になったことが恥ずかしくて、会いたくないようなんです。建設会社の社長として、料理屋なんかよりもよほど立派にやっているのですから、そんなこと気にしなくてもいいのにと思うのですが・・・・、おそらく恥を知る昔の男は自分自身が許せないんでしょうね。
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