母親が作る料理は、ごくごく普通のどこにでもあるようなものばかりで、けっして一級の食材が使ってあるわけでもなければ、お洒落でも上品でもない。ましてや頂点まで味を極めた物でもない。
なのに『母さんの〇〇はうまかったなぁー。』と懐かしく思い出す人が少なからずいます。30年以上料理を作ってきたボクにしても、母の愛情料理に勝るものはないのではないか。そんな印象をもっています。
ところが、今の母親たちは、おしなべて料理がヘタクソになりました。それだけではありません。料理を作らない母親が増えています。昔と比べ、今の母親たちのほうが忙しいとは決して言えません。電化製品のなかったころの母親は、朝から晩まで働きづめでしたので、家や家族に対する愛情が薄れたせいでしょうか。その辺のところはよくわかりませんが、じつは、そこに飲食店のつけいる“スキ”が生まれます。そうでなけりゃ外食産業がこんなに隆盛をほこるわけがありません。
現代の飲食店は、なんと言っても「売上げ至上主義」です。どんなに立派な経営理念や社是があっても、そのほとんどが集団論理倒錯に陥っているか、もしくは、金を儲けるために言っているに過ぎません。ですから、そんな店の料理は、もともとたかがしれているに決まっているし、よくもまぁ、あっちもこっちも味というものをわかっていない店ばかりが流行るもんだ、とボクなんかは思います。
子育てにおいて、親切で誠実な子供に育てようと思えば、意外と母親の作る毎日の料理が大切なような気がします。親切と誠実さと勘のよさがもっともよく現れるのが料理なのだから、そのような母親の影響を子が受けないわけがありません。
そして、食べ物はファッションでも遊びでもありません。命の糧です。なぜなら、この世に生まれてきたすべての「いのち」は、生きることが許されています。そのために地球上のありとあらゆる生命は、生きるために殺し、殺されるを繰り返します。他の「いのち」を食べないと生きられないという宿命をすべての生物が背負っているわけです。魚の命を、野菜の命を、動物の命を食べて生きています。ただしそれは、許されるとか、許されないとかの話ではありません。生命とはそういうものなのですから、与えられた我が命を生きたらいいのです。
そうしたなかで、ボクたち食にかかわるものは、自然とつねに心を通わせながら、文化へと昇華させてゆくこと。これを片時も忘れてはならないと思います。
山へ行ったら、草の声を聞いて採ってくる。木の気持ちになって採ってくる。そして、「どうしたらこの草が喜んでくれるかな?」と問い掛けながら調理し、草の命をまっとうさせてやる。そうした命に対する気遣いをもってこそ、初めて人間が自然と共生できるのだと思います。
全国のお母さん、手作りのおかずを頼みます。
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