23年間もやらせていただいた中川区八田のお店を畳んですでに8年になってしまいました。
1990年4月、29歳のとき、「天ぷら 京料理」を2本柱とするお店を作りました。始める前は、銀行の方々やコンサルタントのような方々から「お前は京料理の店をやりたいというが、中川区で京料理なんていうものは成り立たないから一軒もないんだ」と皆同じことを言うんです。それでもそれしかやりたいことがありませんでしたので、京料理だけでもよかったんですが、皆を納得させるために「天ぷら」をひっつけたんです。天ぷらの油煙で厨房まわりが汚れるので嫌だったんですが、カウンター前で天ぷらを揚げるようにしました。今で言うと目の前で天ぷらを揚げている丸亀製麺みたいな感じです。すべてコース料のみとしました。三千円から八千円。それ以外に680円のランチや1200円の松花堂弁当をお昼だけメニューに入れました。
30年も昔のことで、しかも地下鉄の駅はありましたが、中川区という畑や田圃がまだ残る半分田舎みたいなところでしたから、味が薄いから醤油を持ってこいとか、一度に全部の料理を出せんのかとか、言われることもありましたが、この店がなんと大繁盛してモンスターになっていくんですね。
店のある場所は地下鉄八田駅まで5分ぐらいのところでしたが、地下鉄の走る表通りではありません。住宅街の中にあり、町内で初めての飲食店でした。なんと23年後に閉める時も町内唯一の飲食店だったので、立地としては誰も飲食店を始めようと思わないようなところだったと思います。
僕自身が接客を知らない上にあまりにも忙しいので接客に対するクレームはものすごくありました。僕は僕で調理場の若い子たちを朝から晩まで一日中叱り飛ばしていました。料理の質を保つために一流店の厳しさをそのまま持ち込んだんです。だからお客さんはリラックスして料理や会話を楽しむことなんて全くできません。いつも戦々恐々としていたと思います。僕の怒鳴り声が飛び交ってるんですから。
今、新型コロナのせいで日本中の飲食店は大きな岐路に立たされていると思います。チェーン店以外は、何かひとつでも他の飲食店に負けない突出したものを持っていれば、新型コロナという大きなマイナスをカバーして必ず生き残っていけるはずです。違う言い方をすれば、自分自身が持つ人間力(にんげんりきと読みます)や生き様を問われている、ということです。
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